現代の私たちに求められているのは何が正しいかではなく、どうすれば多数派でいることができるか

ARTIFACT@ハテナ系 - 個と個として繋がりたいのではなく、「みんな」になりたい世界

これは、大手小町だけではなく、ネット全体に見受けられるのではないだろうか。たとえば、2ちゃんねるのスレでは、最初にいろいろ意見が出るものの、最終的にどちらかのサイドに決めたがる。作品のスレなどで顕著だが、良い作品か悪い作品かそのスレ内での意見が決定されたら、その逆の意見や感想は排除される。

を通読して、ちょっと思い出したのでメモ。

歌田明弘の『地球村の事件簿』: 多数派でいることがメディア社会を生きる道?

メディアについて読み書き能力(リテラシー)をつけるにはどうしたらいいのかといった授業をしたときにも意表を突かれた学生のレポートがあった。メディア・リテラシーをつけるには、メディアの言うことを頭から信じず、少数者の言うことに耳を傾けろというのが“常識”だが、「現代の私たちに求められているのは何が正しいかではなく、どうすれば多数派でいることができるか(多数派を誘導できるか)ということではないかと思います」とぬけぬけと書いてきた学生がいた。よくも書きやがったなと思いつつも、たしかにマトをついた指摘であることは認めないわけにはいかない。これは、掲示板での行動様式なども言い表わしているように思う。「いかにしたら多数派を誘導できるか」というのは、意識しているかどうかはともかく、多くの2ちゃんねらーがやっていることだろう。

(強調は俺)


なんというか、少数派=弱者=やられる、と言う図式が成立しているのかな?
先日の今井氏のブログ炎上を見てもあんま変わってないなぁ。まだあれからそんなに経ってないか。随分と昔のような気がするよ。

なんでこんなにゆとりがないのだろう?ゆとり教育の申し子達が。