「脳」の呪縛

仕事の報告書(そろそろ対策を考えないといけない)の「言い訳」をこりこり書いていたら電波を受信して、金沢の高校生二人が同居する少年に火を付けた事件事件についてのコメントを求められた。

はてなブックマークでのコメントというのは、かなりじっくりとユニークな解説を展開しても、「たった百文字で批評家気取り」にまとめてしまって、結局ブックマークした本人が満天下に恥をさらすことになるので、あれはよしたほうがいいよと以前に忠告されたことがある。

私が言いたかったのは、こういうのは「脳化社会」に固有の現象だということである。
脳化社会にはさまざまな特徴があるが、その一つは「身体性の喪失」である。
どうしてそうなるのかというと、脳民の行動基準は「快楽」だからである。
マッシュ・ガイア・オルテガが看破したように、「ニュータイプとは、自分が『大佐も戦場に出れば分かる』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、あれはいいものだ、と言うそのような人々全部である。」(『ジェットストリームアタック』)

彼らの行動準則は、「面白いかどうか」だけである。

何らかの身体感覚に照らして五感を弁ずるということをしない。
「面白い」は「よいこと」で、「つまらない」は「悪いこと」というのが脳民のただひとつの基準である。
これはある意味では合理的な判断である。
五感(視覚とか聴覚とか味覚とか痛覚とか)だって、ある程度までは「快楽」を感じないと実効的には機能しない。

では、なぜ脳化社会がこれほどあしざまに批判されるのかというと、問題は「快楽」を追い求めるため、身体感覚から遊離してしまう結果、「快楽」をかえって損失するためである。

それが脳化社会にかけられた「呪い」である。

逮捕された高校生たちは「寝たら火を付けるゲームだった」と供述しているそうである。
彼らには犯意がなかったらしい。
その場にいた三人全員で決めたルールである以上、罰ゲームは実行しないと「面白くない」と思ったのだろう。
彼らは学生たちの狭い脳の外側に「身体」という殻によって既定されている人間であるということを(知識としては知っていても)、実感したことがなかったのである。

というようなことをたしかに百文字にはまとめられないね。